この記事では、第二次世界大戦後のヨーロッパ経済について解説します。第二次世界大戦後は、アメリカを中心とした経済体制が確立した時代です。
その一方で、資本主義諸国と社会主義諸国が分断され、大きな戦争はなくとも静かに対立する時代でもありました。こうした中で、西洋の経済はどうなっていたのか解説します。
また、この記事は以下の書籍をもとに執筆しています。あわせてお読みください
戦後経済体制の確立:ブレトンウッズ体制
第二次世界大戦の反省から、改めて戦後の世界の経済体制が見直されました。この見直された国際経済体制がブレトンウッズ体制です。関税や為替管理などに規制が設けられ、自由主義を基軸とした経済体制が構築されたのです。
これを総称して、ブレトンウッズ体制と言います。
ブレトンウッズ会議
1944年7月に連合国45カ国はブレトンウッズにおいて戦後の国際通貨制度のみなおしを協議しました。
ブレトンウッズ会議では、イギリスのケインズ案とアメリカのホワイト案で対立しました。
ケインズ案は、新国際通貨バンコールを創設し、この国際的管理通貨体制のもとでの国際通貨体制を提案しました。
一方のホワイト案は、アメリカに圧倒的な経済的優位を基礎に、合衆国ドルを基軸通貨にするというものでした。
結果として、ケインズ案は通らずアメリカのホワイト案が通過することになります。これをブレトンウッズ体制と言います。この体制を基軸にさまざまな制度が生み出されます。
そこで生まれたのが
- IMF
- 世界銀行(IBRD)
- GATT
です。詳細に関しては別の記事で解説しているので併せてお読みください。
冷戦とヨーロッパ経済の復興:1945〜1950年代後半
一方で、第二次世界大戦後、東西冷戦(Cold War)という世界各国が米国を中心とする資本主義国とソビエト連邦を中心とする社会主義国が対立が勃発します。
冷戦の始まり
冷戦の始まりとしては、ドイツ第二次世界大戦中の1945年のヤルタ会談と言われています。
1946年にイギリスの前首相チャーチル「鉄のカーテン」演説をおこない、ソ連の東欧諸国囲い込みを批判し、自由主義陣営の結束を呼びかけました。
少なくとも1947年頃から冷戦という言葉が使われるようになります。
マーシャルプラン(欧州復興計画):資本主義陣営の結束と東西の分断
この冷戦を経済的に固定化したのがマーシャルプランです。ヨーロッパ諸国は戦災によってドル不足となっていました。大戦によって、ドルが不足しており復興資材を輸入することができなくなっていました。
そこで1947年にジョージ・マーシャル米国務長官は、ヨーロッパ全土に対して大規模な援助を行う方針を発表します。1947年から52年にかけて総額130ドルに上る援助をヨーロッパに対して行いました。
これによりヨーロッパのドル不足を解消し、戦時需要の消滅しつつあったアメリカの国内産業を潤すことになりました。
当初は東ヨーロッパも範囲に含まれていたのですが、ソ連が東ヨーロッパへの影響力を増しており、ソ連側の諸国はマーシャルプランへの受け入れを拒絶しました。
コミンフォルムとコメコン:社会主義諸国の結束
マーシャルプランを東ヨーロッパ諸国が拒否した背景には、ソ連がマーシャルプランに対して警戒をしていたことがあります。
そこで1947年にコミンフォルム(共産党情報局)を設立し、東側諸国に対する締め付けと監視を強化してました。さらに、マーシャルプランに対決する形で、1949年コメコン(経済援助相互会議)をソ連圏に成立させています。
結果として、マーシャルプランは、資本主義諸国の西ヨーロッパ諸国に限定され、受け入れ国は西ヨーロッパの16カ国になりました。
一方で、東ヨーロッパはコミンフォルムやコメコンの制度に内包されることになります。結果として、マーシャルプランはヨーロッパの東西対立は経済的側面で深めることになったのです。
冷戦の拡大
1948年以降、ソ連の核開発の進展によって東西の対立は先鋭化し、先ほどのマーシャルプランをきっかけに経済的な対立を深めていきました。
その中で、冷戦はドイツの東西分裂や中華人民共和国の建国のように、拡大していきました。
ヨーロッパの東西分裂:軍事同盟の成立と東西ドイツの分裂
マーシャルプラン以後、東西対立は深まることになります。西側では軍事同盟である北大西洋条約機構(NATO)が1949年に成立し、ソ連への包囲網を構築していきます。
1955年には対抗して、東側の軍事同盟であるワルシャワ条約機構が東側で成立しています。
ドイツは1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、東西の分断体制が固定化されました。さらに、ベルリンの壁が1961年に建設されドイツの東西分裂は根深いものになっていきました
西ヨーロッパの高度経済成長と混合経済の展開:1950〜60年代
とはいえ、1950年代後半からは西側ヨーロッパの高度経済成長が始まった時代でもあります。特にケインズ経済学は国家の政策に大きな影響を与え、混合経済という経済体制をもとにアメリカの水準へキャッチアップをしていったのです。
西ヨーロッパの高度成長とキャッチアップ
1950年代、60年代と西ヨーロッパは急速にアメリカの水準に接近(キャッチ・アップ)するようになりました。
そして、この経済の成長は所得の上昇、大量生産、大量消費によって国民生活を一変させました。「見えざる革命」が起こり大衆消費社会が登場するようになったのです。
具体的には、中流家庭の住宅れれ環境が大幅に改善し、浴室やトイレを備えた家庭が増えていきました。1970年代までにはテレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機、仮定電話が普及し、自動車の所有率も急激に高まりました。
食生活では肉の消費量が急増し、サービスでは美容院などが登場し、スーパーマーケットが登場し大衆かていの購買意欲を刺激しました。
混合経済と計画化:マクロ政策
ヨーロッパのキャッチアップには各国政府が完全雇用と経済成長を積極的に追求したことが挙げられます。主に混合経済という自由放任の資本主義の欠陥を除くために相当程度国家が介入する経済体制によってこのキャッチアップをたっせしたのです。
背景には、戦前のニューディール政策などのケインズ経済学と近い政策の重要性を官僚たちが自覚していったことが挙げられます。
1960年になると、自覚的にケインズ的な政策に取り組むようになっていき、景気循環に対しては、総需要管理で対応し、財政政策や金融政策も積極的に行いました。
こうした中で、西ヨーロッパでは、国内総生産(GDP)への政府支出の割合が大幅に拡大しました。1950年代には30%から40%、70年代には50%を超える国も現れました。
イギリスではアトリー労働党内閣のもとで、石炭や電力、鉄鋼、ガス、運輸の基幹産業部門での国有化が行われました。同様のことは、フランスのドゴール臨時政府のもとで独占的国営企業が石炭や電力などの重要物資を国有化していきました。
さらに、フランスやイタリアでは経済計画に多くを依存するようになりました。フランスのモネ・プラン(近代=設備計画)では、国家が物資や資金の配分を定めるようになっていきました。この達成には、マーシャルプランによる援助があったことも忘れてはいけません。
さらにマクロ経済学の登場は、国内総生産をはじめとする国民所得統計の整備を促進し、官僚たちの政策立案の武器となりました。
東ヨーロッパの経済成長:1950〜60年代
東ヨーロッパにおいても1950年代60年代は、経済成長が起こりました。経済成長は生産要素の大量投入によって実現しました。またこれにより、労働投入も増加しました。
詳細を以下で解説していきます。
東ヨーロッパの社会主義化と経済成長
1950年代60年代、東ヨーロッパ諸国においても経済成長が続きました。農業や工業ではソ連モデルに従い、主要産業が国有化され、多くの民間企業が非合法化されました。商業銀行も国有化され、証券市場は閉鎖されました。
物的純生産(社会主義諸国版のGDP)は東ドイツ、ポーランドでは10%、ルーマニアでは12%に上りました。
集団農場化はソ連で1920年代から行われていました。このモデルはブルガリアが一番早く集団農場化が進みました。ポーランド、ユーゴスラビアの一部を除き最終的には農業は集団かされ、1960年代半ばには90%以上の農地が集団かされました。
東欧の全ての国で5ヵ年計画が実施され、重工業、資本財生産優先の計画経済の元で、工業生産は大幅に成長したのです。
しかし、生産性の効率化や生活水準の向上において西側諸国より劣っており、西側からの情報が秘密裏に入手した民衆は、東側の生活水準の低さを認識することになるのです。
これがのちの東側における経済改革へとつながります。
1960年代の経済改革
1953年にスターリンが死亡し、後継のフルシチョフは1956年のソ連共産党第20回大会でスターリン批判を行いました。さらに、ソ連から離反するような国も現れ、チトーのユーゴスラビアや、ポーランド1956年にはとハンガリーで民主化運動が起こりました。
しかし、ソ連と決別をしても中央の計画経済は維持されました。そのため、生産の効率性は上がらず東ヨーロッパでは経済改革が進みました。
これは、中央本部の権限を縮小することから始まりました。ソ連では細かいところまで詳細な指令を与えていた中央機関は、資源の配分の総合的調整へと縮小されました。そして、大きな権限は各産業部門や個別の企業へと移管されました。
計画を実施するための指令も市場原理を反映した価格決定が導入されました。ソ連のリーベルマンは競争原理を導入して効率性を高めることも提案しています。企業の自主性や、労働者のボーナス制度の導入など市場原理に則った提案しました。
実際には改革のありようは国ごとに違い、ブルガリアやアルバニアではほとんど改革は行われませんでした。
さらに、これまで社会主義諸国は自給自足的な側面が強くありました。しかし、先に説明したコメコンを通して加盟国同士の相互関係が強化され、国際的分業をもとに、多角的な貿易も行われるようになりました。
さいごに
最後まで読んでいただきありがとうございます!西洋経済史に関する理解は深まったでしょうか?他にも西洋経済史の記事は以下にまとめてあるのでぜひ読んでみてください。
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ただ難易度がやや高いので、もう少し難易度を下げたい方は以下の書籍もおすすめです。この「やり直す経済史」は日本に関しても言及しているので、親近感を持って経済史にのぞむことができます。
また、これまでの経済史は西洋中心の考え方になっています。しかし、世界にはアジアやイスラーム地域に関しては忘れられがちです。そこで「グローバル経済史入門」は、東南アジアなども含めたグローバルな経済史を描き出しており、非常に学びが深いです。ぜひ読んでみてください。