この記事では、グローバル化が進んだ20世紀後半について取り扱います。
先進国における高度経済成長の時代は1970年に終わりを迎えます。そのきっかけとなったのが1971年のドル危機と、2度にわたる石油危機です。
これにより、世界は世界経済の安定が失われました。また、1980年代には社会主義体制の限界が露呈した時代でもあります。
また、この記事は以下の書籍を参考に作成しています。西洋経済史をわかりやすくまとめた教科書的な書籍です。よかったら併せて読んでみてください。
ドル危機:ブレトンウッズ体制の崩壊と変動相場制

ドル危機以前まではブレトンウッズ体制によってドルが基軸通貨になっていました。ドル危機とは基軸通貨の位置を占めてきた合衆国ドルに対する信頼が揺らいだことです。
これにより、世界の通貨体制の軸が失われ世界経済の不安定さがましました。その結果変動為替相場制へと移行しました。
ドルが基軸通貨であった時代に関しては以下の記事で書いてあります。
以下では詳細に解説をしていきます。またブレトンウッズ体制の詳細に関しては別の記事で解説しているので併せてお読みください。
ドル危機
ドル危機とは、ドルの基軸通貨としての役割が揺らぐような出来事です。アメリカ政府は、資本流出の抑制や外国の株式や債権を購入する際に、利子平衡税を1964年に導入するなどのドル防衛策につ止めました。
しかし、1971年にニクソン大統領はドルと金の交換停止、10%の輸入課徴金新設を内容とする新経済政策を発表しました。これをニクソン・ショックと言います。

ドルショックの要因には
- アメリカの経済的優位が日本やヨーロッパの経済的優位が失われたこと
- 1960年代のベトナム戦争や福祉政策による支出
が挙げられます。これにより合衆国ドルの価値が下がるからです。
変動為替相場制への移行
ニクソン声明以後の1971年12月18日に、スミソニアン合意によってドルを軸に為替レートが調整されました。ドルは金に対して7.89%、日本円は16.88%切り下げられました。

しかし、固定相場制は維持することができず、1973年以降は政府や通貨当局の為替管理の下から離れ、市場原理によって為替が決定されるようになりました。
固定為替相場制では、貨幣の価値は大きく変動しませんでした。しかし、変動為替相場制では大幅に貨幣の価値が変動していくようになったのです。

これにより国境を超えた資金の移動が活発化するようになったのです。これにより為替の市場取引が爆発的に成長しました。
変動為替相場制への移行で、国境を超えた資金の移動が活発化するようになったのです。これにより為替の市場取引が爆発的に成長しました。
二度にわたる石油危機

ドル危機に続き、1973年に第一次石油危機、1978年には第二次石油危機が起こります。これにより石油の供給不足が起こり、価格の暴騰が起こります。これにより国際経済は更なる混乱を迎えることになります。
第一次・第二次石油危機の原因
この石油危機の要因には中東における混乱があります。第一次石油危機の要因には第四次中東戦争があります。
1973年にエジプト軍とシリア軍が南北からイスラエルを攻撃したことで、第4次中東戦争で勃発しました。これにより、イスラエルとエジプト・シリア・サウジアラビアなどのアラブ諸国が対立をするようになります。

この間、サウジアラビアをはじめとするアラブ諸国は、イスラエルに親和的なアメリカやイギリスなどの西欧諸国に対して石油価格を釣り上げて圧力をかけたのです。
第二次石油危機では、1978年のイラン・イスラーム革命が要因となっています。
イラン・イスラーム革命は、新米的な王政のもとで近代化を進めていた政府に反発する、ホメイニを中心とする宗教的過激派が国王を追い出した出来事です。これにより、イスラーム共和国が樹立されました。

これにより半欧米的な政権が産油国イランにできたことで、石油の入手が困難になったのです。
- 第一次石油危機の要因には第四次中東戦争があります。
- 第二次石油危機では、1978年のイラン・イスラーム革命が要因
スタグフレーションの進行とその後
2度にわたる石油危機は、石油輸入国の供給側のコストを大幅に上げることになります。これにより、スタグフレーションが発生することになります。
スタグフレーションは景気の後退とインフレーションが同時に発生することです。 通常は、インフレーションが起こると景気が拡大すると見られていました。通常インフレは総需要の拡大で起こりますが、スタグフレーションは供給側のコストの増大でインフレが起こったのです。

スタグフレーションは以下の記事で詳細に解説しています。合わせてお読みください。
結果、総需要は変わらない中でインフレが起こるので、取引量が減少してしまいスタグフレーションが起こるのです。
- 2度にわたる石油危機は、石油輸入国の供給側のコストを大幅に上げることになります。これにより、スタグフレーションが発生することになります。
- 1990年代には先進国の物価は安定し、むしろ世界的なあデフレが懸念んされるようになっていきました。
新自由主義とグローバリゼーション:石油危機とドル危機ののちの世界

石油危機やドル危機を超えて、90年代には物価は安定化していきました。そうした中で、1989年には東欧やソ連などの社会主義陣営の崩壊が起こりました。
以下で詳細に解説します。
社会主義経済体制の崩壊と冷戦の終結
1989年頃から社会主義体制は崩壊をしていくようになります。石油危機は東ヨーロッパに深刻な影響を及ぼします。東ヨーロッパは、西側諸国の資金に依存するようになり、債務を抱えるようになり相次いで破綻しました。
こうした文脈の中で、社会主義陣営のドンであるソ連も改革を迫られます。しかし、以下で述べるように、ソビエト連邦は崩壊し、世界のほとんどの国が市場経済へ参加することになったのです。
冷戦の終結
1985年、ゴルバチョフがソ連共産党書記長となります。ゴルバチョフは、ソ連の経済と社会の停滞を打破するため、グラスノスチ(情報公開)とペレストロイカ(改革)を掲げました。

具体的には、計画経済に対して一定の修正を行い、市場経済の導入を行いました。さらに、出兵していたアフガニスタンからの撤退を進めるなどアメリカへの態度を軟化させました。
この延長で、1989年にマルタ島における米ソ会談でブッシュ米国大統領とゴルバチョフは冷戦終結の共同宣言を発表し、冷戦は終結しました。
1990年になると東西ドイツが統一されます。象徴的な出来事としてはベルリンの壁の崩壊が挙げられるでしょう。こうしたなかで、ソビエトの権威は失われていくようになります。
ソ連の崩壊
しかし、コルヴァチョフの努力も虚しくソ連指導部は権威を失墜させていました。1990年にリトアニア、ついでラトヴィア、エストニアが相次いで独立を宣言します。ロシア共和国が、エリツィンの指導のもとで主権を宣言し、ゴルバチョフとエリツィンの2つの主権が存在する状態になりました。

最終的に、1991年12月8日にロシア、ウクライナ、ベラルーシのスラヴ系三共和国首脳がミンスク郊外に集まってソヴィエト連邦の無効を宣言します。

代わって独立国家共同体(CIS)を創設することでソビエト連邦は消滅が決定的なものになります。ソビエト連邦の領土はロシア共和国が継承することになります。

これにより、社会主義の主要国ソ連が崩壊したことで、世界人口50億人のうち、10億人程度が市場経済に参加していたと言われていますが、ロシア、東ヨーロッパ、中国、インドを加えて、30億人が市場経済へと参加するグローバリゼーションの時代へ突入することになるのです。
EUの道
西側ヨーロッパでは1980年代からの不況への対応のために経済体制を変更させていきます。さらに国境を超えた域内単一市場の建設によってグローバリゼーションの流れに対応しようとします。
1950年には、フランスのシューマン外相によるシューマン宣言を発表します。これによりECSC(欧州石炭鉄鋼共同体)が発足し、ヨーロッパ領域内における資本や人やモノの移動の自由化が進みます。1958年に
- EEC(欧州経済共同体)
- EURATOM(欧州原子力共同体)
が発足します。これらは1967年に統合されECが創設されます。
ヨーロッパを統合する取り組みは、東側諸国は参加しませんでしたが、冷戦の終結や東西ドイツの統一などによりグローバル化が進み1993年にマーストリヒト条約を発効し、EUが発足することになります。

ヨーロッパを統合する取り組みは、東側諸国は参加しませんでしたが、冷戦の終結や東西ドイツの統一などによりグローバル化が進み1993年にマーストリヒト条約を発効し、EUが発足することになります。
ケインズ主義から新自由主義への展開
政策面では、新自由主義の台頭が進みます。新自由主義とは、市場原理に任せることを軸に、政府の役割を最小限にとどめる(小さな政府)、規制緩和を進める考えです。
新自由主義の台頭の背景には先のスタグフレーションやケインズ主義的な財政支出による政府債務の累積への批判がありました。

また、新自由主義を主張した経済学者にはミルトン・フリードマンやハイエクといった人物が挙げられます。詳細は別の記事で解説してあります。
新自由主義の代表としてサッチャリズムと言われるものです。
1979年の総選挙でマーガレット・サッチャー党首の保守党が勝利し、小さい政府を実現すると言う公約を掲げます。鉄の女と言われた人物です。
財政難の解消のためとして公共事業の削減と民営化(規制緩和)を進め、福祉事業や社会保障を次々と削減し、労働党とその支持母体の労働組合を攻撃しました。強硬な姿勢は保守層だけでなく大衆に支持されました。

1981年に成立したアメリカのレーガン大統領も同様な政策を実行しました。

これらは、金融においても規制緩和を進め、国際的資金移動の流入を受け入れるようになりました。これにより、国際金融は、金融派生商品(デリヴァティブ)の成功とあいまり、投機的性格を強めていきました。
こうした新自由主義的な流れは、混合経済体制の性格が強かったフランスにおいても起こり、1986年のシラク政権も同様に規制緩和をするようになっていきました。
- 新自由主義は、小さな政府を掲げる
- 公共事業の削減と民営化(規制緩和)を進め、福祉事業や社会保障を次々と削減し、
- 新自由主義の台頭は、金融においても規制緩和を進め、国際的資金移動の流入を受け入れるようになりました。
さいごに

最後まで読んでいただきありがとうございます!西洋経済史に関する理解は深まったでしょうか?他にも西洋経済史の記事は以下にまとめてあるのでぜひ読んでみてください。
また最後におすすめの書籍を紹介したいと思います。まず、この記事は以下の書籍をもとに執筆しています。有斐閣アルマの「西洋経済史」は非常にベーシックな内容となっているので、学ぶ上で非常にためになると思います。
ただ難易度がやや高いので、もう少し難易度を下げたい方は以下の書籍もおすすめです。この「やり直す経済史」は日本に関しても言及しているので、親近感を持って経済史にのぞむことができます。
また、これまでの経済史は西洋中心の考え方になっています。しかし、世界にはアジアやイスラーム地域に関しては忘れられがちです。そこで「グローバル経済史入門」は、東南アジアなども含めたグローバルな経済史を描き出しており、非常に学びが深いです。ぜひ読んでみてください。