この記事では西洋経済史の古代から中世の期間を解説します。
また、この記事は以下の書籍をもとに書いた記事になります。非常に西洋経済史の基礎的な部分を解説したものになります。合わせてお読みください。
中世のヨーロッパの歴史
ここでは、ヨーロッパーの古代の終わりから中世までを簡単に解説します。
ローマ帝国の滅亡:古代の終わり
ヨーロッパの伝統的な時代区分では、ローマ帝国が東西に分裂した後、476年に最後の西ローマ皇帝が退位したことを持って古代を終わりとなります。
イタリア半島の小さな都市国家であったローマ帝国は、1世紀〜2世紀の間に地中海沿岸全域に加えて、ヨーロッパや、北アフリカ一帯、西アジアをはじめとする世界帝国となっていました。
しかし、ゲルマン民族が西ヨーロッパに4世紀〜6世紀頃定着し始めました。結果、395年にローマ帝国が東西に分裂します。
476年に最後の西ローマ皇帝が退位してローマ帝国は滅亡しました。
メロヴィング朝の支配
486年に建国されたフランク王国のメロヴィング朝が、ヨーロッパでは大きな勢力を持っていました。メロヴィング朝は、ゲルマン人であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝です。
フランク王国はカトリック教会と結びつきながらヨーロッパに支配を広げました。
フランク王国初期の支配形態としては、王と家臣との人的紐帯が統治の核をなしていました。
また統治には
- ローマ帝国の行政組織
- カトリック教会の組織
を活用。都市では司教座が、農村では修道院が大きな影響力を持っていました。
カロリング朝の支配
カロリング朝の成立後、フランク王国皇帝はキリスト教世界の守護者としての性格が決定しました。
カロリング朝は、751年にピピンがメロヴィング朝の王を廃してできました。その際に、王の血統的欠如を補うためにローマ教皇との密接な関係性を結びました。
ピピンは教皇にラヴェンナ地方を占領後、教皇に寄進します。これによりローマ教皇領が成立します。
カール大帝が800年にローマ教皇からローマ帝国皇帝の戴冠を受けたことで、キリスト教世界の守護者としての地位が確固たるものになりました。
カロリング朝の頃になると支配形態 は、家臣団による中央集権の行政でした。しかし、実体としては地域の自立性が強く荘園が生まれる原因ともなっています。
ルートヴィヒ1世の頃になると、817年に3人の息子たちに王国を分割相続させる法律を作りました。ルトヴィヒが崩御すると、翌年にフォントノワの戦いが勃発します。
そして、843年のヴェルダン条約によって帝国は、東西中央の三国に分断されることになりました。870年には、ロータルの死亡をきっかけに起こった内紛の結果、メルセン条約で西フランク王国とイタリア王国、東フランク王国に別れました。
これらは、現在のフランス、イタリア、ドイツの原型になりました。
中世ヨーロッパの社会:封建制度と領主制
では、続いて中世ヨーロッパにおける社会形態について解説します
封建制と古典荘園
中世は、封建制という社会形態が主流でした。封建制とは、王と土地を媒介にした分権型の国家体制を指すもの。
具体的にいうと国王や皇帝が諸侯(大貴族)に封土(土地)と保護を提供する見返りに、諸侯たちは軍役を提供するという双務的な関係のことを封建制と言います。
この関係は、大貴族と小貴族の関係にも適用され、皇帝が小貴族と直接関係を結ぶこともありました。さらに、複数の君主から封をもらう家臣もいたそうです。
以下の図は簡略化した封建制の図ですが、実際はもっと入り組んだ関係性でした。
ヨーロッパでは、カロリング朝において王と家臣の人的紐帯が弱まったことが封建制の成立の要因だとされています。
カロリング朝以降にフランク王国の中心、ロワール・ライン両大河の間からヨーロッパに広まりました。
領主制
また、領主制とは土地の経営のあり方のことです。封建制は社会の形態のことであり、領主制は、あくまで領主と農民の関係性のことを指します。
領主制は、封土を与えられた貴族とこれらの土地の工作の義務を負う農民との関係から成立していました。
貴族は領主として土地の経営を行った。修道院も領主として振舞っていた。王自身の所領である王領地も封建制下の王の重要な財政基盤になっていました。
また、領主へ自由農民が土地を寄進自由身分の農奴、後者は自由身分の農民の賦役による工作がなされた。7世紀以降に大所領か
フランク王権から課される軍役とか公租を避けるために行動”
中世ヨーロッパの農業
続いて、中世ヨーロッパにおいて主要な産業であった農業について解説していきます。
気候
まず、ヨーロッパの気候を押さえておきましょう。ヨーロッパの気候風土は、大きく南北で異なリマス。
- アルプス山脈より南:地中海性気候
- アルプスより北:海洋性気候
一方で、東ヨーロッパの内陸部は冬夏の寒暖が激しいと言われています。こうした中で二圃制や三圃制などの農業技術が発達します。
農業技術の展開
中世ヨーロッパでは、小麦やライ麦などの麦系の作物の生産がなされていました。
中世当初までは、二圃制が主流でした。二圃制とは耕地を2分割して、半分は麦などの栽培をし、は休閑地として地力の回復をはかる生産方法です。この方法を毎年交代させていくことで、土地が痩せることなく安定して収穫ができます。
しかし、9世紀頃に生産方法が三圃制に変化します。
三圃制とは、土地を三分割して1つを休閑地とし、残りの2つに、大麦などの春にタネを蒔く必要のある作物を作り、もう一方を小麦などの秋にタネを蒔く必要性のある穀物を植え付ける方法です。
これを、毎年土地を入れ替えながら生産をします。三圃制は二圃制に比べ生産効率が高くなっております。
こうした生産技術の進化によって農業生産量の増大がなされました。9-12世紀は、生産量の増大以外に耕地が増大しました。これにより新しい村が各地で生まれました。これを大開墾時代と言います。
また、封建制下では農民保有地と領主直営地で共同作業を行っていました。
中世ヨーロッパにおける商業の展開
中世のヨーロッパでは、村と村を超えた取引にとどまらず、イスラム圏との貿易も発達した時代です。
続いて、中世ヨーロッパにおける商業や経済について解説していきます。
自給自足の社会における商業形態
中世ヨーロッパは農村社会でした。そのため、そこまでたくさんの種類の製品を作ることができませんでした。そのため、不足する財を調達する必要性がありました。そこで
- 巡回型商業
- 所領間取引
が活発になりました。
まずは、巡回型商業です。巡回型商業とは、村と村を周り、不足する財や高価値な財を販売して回る商業形態のことです。その担い手は、遍歴商人と言われる人たちでした。彼らが村と村を回ることで取引が行われました。
一方で、所領間での取引も活発になっています。農業生産の増大によって、自己消費を超える余剰が生まれることもありました。
所領内では、供給不可能な手工芸品や農産物を所領外から調達することもありました。逆に余剰分を所領外に販売することもありました。
運び手としては、商人や運送業者に委託するか、農民の賦役として行われることもありました。彼らは、流通税免除特権が与えられました。
当時の領主は徴税権・裁判権・警察権を持っていました。安全保障や不正取引への取り締まりのために流通税や取引税を徴収しました。これらの流通の障壁を免除されたのでした。
市場の形成
また、中世ヨーロッパでは市場(いちば)も形成されました。市場は、多くの財が集結し多くの人々がそこで取引を行う場所です。
市場の形成には、特に宗教的な要因が強く、修道院が祝祭日に所領近接地域で市場を開催しました。常に開催されているわけではなく、特定の期間絞り開催されました。
市場は、以下の2つの意味で使われていました。
- fair:祝祭日の集い。宗教的色合い
- market:売買の集い
これらは、区別されず使われました。しかし、のちに宗教的な市場と実利的な市場は分かれていくようになりました。
都市の成立とその担い手:ギルド・ツンフト
中世にはヨーロッパ各地に都市が形成されました。その起源には、
- 司教座都市などの帝国ローマを起源とする集落
- 封建領主主導の居住地近接における居住地
- 教会・領主の居城地域に近接した商業車の居住地
商業の取引拠点としても機能しました。また都市の行政を商人の団体が行うこともありました。それが同業組合(ギルド・ツンフト)と呼ばれる団体です。ギルドは、職能を軸とて組織された職人ギルドと、商人によって組織された商人ギルドものがありました。
12世紀からは靴屋やパンやのギルドがありました。親方やその徒弟、職人が生産に従事していました。
ギルドは、市場税などの税金を取ることで行政を行い、宗教行為や慈善活動も行なっておりました。
遠隔地商業の展開:ハンザ同盟や北イタリア商人の活躍
中世ヨーロッパの商業は、ヨーロッパ領域内に収まりませんでした。特に、10世紀末からは遠隔地商業が発展しました。
例えば、イスラーム系の商品(東方産品:香辛料や絹製品)や西フランスの岩塩がなどが取引されるようになりました。その担い手となったのが。
・北イタリア商人とフランドル地方の商人
・ハンザ同盟
でした。まず北イタリアとフランドル地方の商人は南北の流通において重要な役割を果たしました。
フランドル地方と北イタリアは南北連結ルートは、イスラーム圏と西欧をつなぐ重要なルートでした。北イタリア商人はイスラームの産品を南北ヨーロッパの壁となっている北アルプス山脈を越えて流通を促進しました。
フランドル地方と北イタリアはシャンパーニュの市場が隆盛しました。
また、流通に限らず、フランドル地方と北イタリアは、毛織物や絹織物などの重要な手工業地域になっていました。
もう1つが、ハンザ同盟です。彼らは、バルト海・北海ルートの取引に重要な役割を果たしました。
ハンザ同盟は、11世紀同業者団体のハンザのドイツ商人がいた。都市を単位としてハンザが結成。ハンザは一群という意味。
1358年には北ドイツのリューベックを主導として都市たちがハンザ同盟を結成しています。フランドル地方やイギリスのロンドン、ロシアにも商館を建設しています。
ハンザ同盟とフランドル地方と北イタリアは、東西ヨーロッパをつなぐ商業において主導的な地位を発揮しました。
決済制度と簿記
最後に中世ヨーロッパの決済制度と簿記について解説します。
中世ヨーロッパでは手形などの支払い方法が発達しました。この2つについて解説していきます。
貨幣と手形
決済制度の発達には遠距離商業の発達が背景にありました。遠隔地では違う貨幣が使われていました。こうした際に金貨と銀貨など重宝されました。
- ペニー銀貨
- イスラーム金貨
- ビザンツ金貨
また、手形も発達しました。手形とは、一定の期間後に支払うことを約束して発行する証書です。取引をする時点で必要金額が手元になくても、のちに支払いを保証されたものが手形となります。
その始まりが、11世紀末〜13世紀まで行われた十字軍に参加したテンプル騎士団が発行した旅行手形です。
当時はキリスト教的に利子率がダメだったので、名目上は手数料で利子を撮りました。定期的に開催される市場は決済の場所となりました。
複式簿記
また、イタリア商人の間では複式簿記が発達しました。複式簿記の発達によって利益や費用の計算が正確に行われるようになりました。
複式簿記とは、貸方(資金調達側)と借方(資金運用側)に分けて帳簿をつける手法のことです。現在でもこの手法は会計の基礎として使われています。
また、これにより現在の会社の元となるような動きもこの時期に起こっていました。(厳密には会社とは違う)
中世末期の危機
最後に、中世末期のヨーロッパについて取り扱います。
13世紀からは、ヨーロッパ全土が天候不順を原因とする、凶作が続いた。これにより飢饉が発生し、食料価格が高騰しました。
1347年〜49年にはペストが大流行しました。黒海からイタリアに入り、人口の1/3が死亡したtの推定されています。飢饉やペストの流行によって民衆反乱も起こりました
結果として、人口減少による農産物価格が下落が起こり、領主に入ってくる利益が小さくなりました。その上、人口減少によって労働供給が少なくなり労働コストが上がりました。
こうした中で領主はそこで税金をあげたので、反発した農民は反乱を度々起こしました。
労働コストの高騰によって職人は高級品へと嗜好を写していった。こうした中で北イタリアなどでは経済的繁栄を繰り広げていった。結果としてルネッサンス芸術が花開きました。
さいごに
最後まで読んでいただきありがとうございます!西洋経済史に関する理解は深まったでしょうか?他にも西洋経済史の記事は以下にまとめてあるのでぜひ読んでみてください。
また最後におすすめの書籍を紹介したいと思います。まず、この記事は以下の書籍をもとに執筆しています。有斐閣アルマの「西洋経済史」は非常にベーシックな内容となっているので、学ぶ上で非常にためになると思います。
ただ難易度がやや高いので、もう少し難易度を下げたい方は以下の書籍もおすすめです。この「やり直す経済史」は日本に関しても言及しているので、親近感を持って経済史にのぞむことができます。
また、これまでの経済史は西洋中心の考え方になっています。しかし、世界にはアジアやイスラーム地域に関しては忘れられがちです。そこで「グローバル経済史入門」は、東南アジアなども含めたグローバルな経済史を描き出しており、非常に学びが深いです。ぜひ読んでみてください。