この記事では経済から見た第一次世界大戦についてわかりやすく解説します。20世紀はじめは
- 第一次世界大戦による総力戦体制
- ソビエトの発足
が特徴として挙げられます。第一次世界大戦の終結によって取り決められたドイツの賠償問題はナチスの台頭を招きました。
また、この記事は以下の書籍を参考に作成しています。西洋経済史をわかりやすくまとめた教科書的な書籍です。よかったら併せて読んでみてください。
第一次世界大戦の勃発
サラエボ事件
1914年7月28日、セルビアに対するオーストリアの宣戦布告によって第一次世界大戦が始まりました。大戦の引き金を引いたのはオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)で、多様な民族で構成されるバルカン半島で発生しました
同盟国陣営と連合国陣営の対立
サラエボ事件は、ヨーロッパ全体を巻き込む戦争に発展します。この戦争は同盟国陣営と連合国陣営の対立という構図へと変わっていきます。
同盟国陣営は、ドイツやオスマン帝国、オーストリアでした。一方で、連合国陣営には、イギリスとフランス、イタリア、ロシアで構成されていました。
大戦の長期化
大戦は当初、数ヶ月で終結するものと思われていました。しかし、これまでにはなかった、戦車や航空機、毒ガス兵器といった大量破壊力を持った近代兵器の登場によって戦線は硬直し長期化をしました。
第一次世界大戦下の戦時計画経済と総力戦
交戦各国は、この長期化した戦争を総力戦で切り抜ける必要性が出てきました。なぜなら、戦争の長期化と近代兵器のコストの高まりがあったからです。
そこで、諸国は国民経済を統制・組織化するようになります。軍需物資の生産や兵員輸送の効率化を目的に戦時統制や戦時計画経済が採用されることになりました。
19世紀までの自由主義的な思想は影を潜め、自由放任主義経済から計画経済への移行が、第一次世界大戦によって引き起こされたのです。以下では、各国の様相について見てみましょう。
ドイツ
計画経済という言葉自体、ドイツのメレンドルフが作り出したものでした。ドイツの場合、巨大電機企業AEGなどの企業と政府が組んで経済の組織化を進めました。
1914年に戦時原料局が設置されAEG社長のヴァルター・ラーテナウを中心に組織化が進められました。そして、戦時経済会社を金属、化学、繊維などの各産業部門に設立します。
公権力によって民間企業の競争を抑制したのです。また、以前からカルテル化が進められていたドイツではこうした計画経済への移行が容易に進んだのです。
連合国
イギリスでは軍需生産がロイド=ジョージの軍需省の管轄になり、1916年の軍需法によって賃金統制、労働力規制、民間企業の利潤制限、企業間競争の排除が進められました。
1915年のマッケナ関税法では、資源を戦争に効率的に動員できるように、自動車、時計、楽器などの効関税を課しました。
フランスでも社会党のアルベール・トマを大臣とする軍需省が設立され、業界団体によって軍需生産拡大のための組織化が図られました。
連合国全体としては、イギリスを中心に連合国船舶の一元的配分管理が始まりました。輸送商船などは軍艦が常に護衛する護送船団方式が取られました。
社会主義国家ソビエト連邦の発足と大戦からの離脱
大戦中の1917年にロシア社会民主労働党ボリシェヴィキ派が、1917年に十月革命を成功させた後、ロシア帝政が倒されソビエト共産党政権が誕生しました。レーニンがその行政府である人民委員会議の議長に就任しました。世界で初の共産主義国家でした。
ソビエト連邦では、中央計画経済体制が敷かれました。また、第一次世界大戦からは離脱し、ソビエトは単独講和を行いました。
レーニンの死後の共産党政権は、革命翌日に土地に関する布告によって地主から土地を収奪し、農民に分配しました。1921年に新経済政策(ネップ)によって一時は余剰作物の自由販売が認められました。
しかし、1927年に農業集団化が進み、農民は共産党政権傘下のコルホーズの中に組み込まれていきました。
コルホーズでは農民に作物の洗濯は認めさせず、トラクターなどの近代的農業機械は国営企業の機械トラクターステーション(MTS)に集中されました。この企業を中心にコルホーズを統制したのです。
パリ講和会議とベルサイユ講和条約:大戦の終結とドイツ賠償問題
戦局の帰趨は、結局国による補給能力によって決まることになり、先に補給が尽きようとしていた同盟国側が自壊していくことになりました。
大戦の終結
1919年のパリ講和会議で締結された、ベルサイユ講和条約によって第一次世界大戦は終結に向かいました。主役は合衆国のウィルソン大統領を中心に開催されました。
ドイツの多額の賠償金
ドイツは自国領土の割譲、海外領土、経済権益の没収をされました。しかし、それにとどまらず賠償金義務を貸され、その金額は1320億金マルク(330億ドル)に登りました。
相当な金額であったため、ドイツは戦後支払いが滞ることがありました。それに対して、1923年にはフランスはルールを占領し、軍事的緊張が高まりました。
そこで、アメリカはドーズ賠償案を提示し、アメリカ資本のドイツへの貸付とドイツによる賠償金支払い、連合国による退位米債務支払いとを連結させる仕組みを作り、一時的に軍事的緊張は解かれました。
しかし、この事態は一時的な応急処置でしかなく、のちに世界恐慌の中で瓦解することになりました。
とはいえ、この多額の賠償によってドイツはハイパーインフレに悩まされることになります。これがのちのナチスドイツを生み出す要因になったと言われています。
さいごに
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