「ニヒリズム」や「力への意志」、「超人」などの著名な概念を生み出したフリードリヒ・ニーチェ。彼の思想は、ハイデガーやポスト構造主義と言われる潮流に対して大きな影響を及ぼしました。
また、学術領域に限らず、現代社会を生きる人々に対しても生きる道標となるような思想を残しています。
そこで、この記事ではニーチェその人と、彼の思想についてわかりやすく解説していきます。最後までお付き合いいただければと思います。
- フリードリヒ・ニーチェの思想とその人について知ることができる
- 力への意志、ニヒリズム等のニーチェが残した概念について理解できる
ニーチェとは?
フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche)は、ドイツ・プロイセン王国出身の思想家です。1844年10月15日火曜日にプロイセン王国領プロヴィンツ・ザクセンに生まれました。
彼の著作の初期のものとして、『悲劇の誕生』(1872年)と『反時代的考察』(1876年)が挙げられます。こちらは、演劇家のヴァーグナーや実存主義のショーペンハウアーを崇拝した時代のものと言われています。
『人間的な、あまりにも人間的な』(1878年)の時期になると、ヴァーグナーなどの影響から離れた時期で、「午前の哲学の時代」と言われています。
後期になると、『ツァラトゥストラ』(1885年)に始まり、『善悪の彼岸』(1886年)、『道徳の系譜』(1887年)と立て続けに著作を出版しました。この頃には、のちに解説する永劫回帰を中心とした理論を展開しました。
しかし、後期のニーチェは精神病で発狂を繰り返し、1900年8月25日、ニーチェは肺炎を患って55歳で亡くなりました。死後になると、ニーチェの妹エリーザベトは兄の死後、遺稿を編纂して『力への意志』の出版に踏み切りました。
しかし、彼の思想は一部誤解を受けながら、のちのナチスドイツの思想にも影響を与えてしまいました。
ニーチェの思想
西洋思想(プラトン〜カント)の理性主義への批判
ニーチェは感性や意志の力を強調し、個人の自己表現や自己実現を追求する一方で、カントは普遍的な道徳法則や理性の規範に基づく義務と責任を重視しました。
ニーチェの哲学は、ギリシャ哲学やカントの思想に対する批判をおこなっています。
ニーチェは、プラトンのイデア論や理性中心主義に対して批判的な立場を取りました。彼は現実の多様性と個別性を強調し、人間の経験や身体性を重視しました。また、アリストテレスの倫理学においても、彼は「奴隷道徳」と「貴族道徳」の対立を批判し、道徳的価値の起源や変容についての新たな視点を提示しました。
<デュオニソス的なもの>と<アポロン的なもの>
ニーチェは、理性主義への批判からより創造的で非合理的なものを重要視します。その彼の思想がわかるのがデュオニソス的なものとアポロン的なものという理論です。1872年に出版されたニーチェの著作「悲劇の誕生」に出てくる概念です。
アポロンは理性的なものを象徴する神様で、ディオニュソスは陶酔や狂気的なものを象徴する神様です。
ニーチェによれば、デュオニソス的なものとアポロン的なものは、人間の存在や文化における対立する要素でありながらも、相互に関連し合っています。デュオニソス的なものは創造性や情熱を駆り立て、アポロン的なものは秩序や形式を与えます。
アポロン的なるものとディオニュソス的なるもの、相反する二つの統合したとき悲劇が誕生するとニーチェは主張します。このアポロン-デュオニソスの対比は、ニーチェの思想においてベースになる理論ですので押さえておきましょう。
ルサンチマン道徳とニヒリズム
キリスト教に見るルサンチマン道徳
ニーチェは、キリスト教の伝統的な道徳に対して批判的でした。キリスト教は、利他主義など「同情」を軸とした道徳を解きます。しかしキリスト教は、ルサンチマン(怨恨)を根底に置いていると指摘します。キリスト教は、一見すると「優しさ」とか「謙虚」さを解き、一見いい感じに見えますよね。
しかし、この根底には弱者が強者を自分たちの水準にまで引き下げるために編み出されものでしかないとします。ニーチェは、キリスト教を奴隷道徳と呼んでいます。奴隷道徳は、個人の力や意志の表現を抑圧(禁欲)し、弱者や被抑圧者の視点からの道徳価値を重視します。
そのため、奴隷道徳と対照となる貴族道徳を悪いものとして捉えます。なぜなら、貴族道徳が、個人の自己実現や自由な存在を重視し、自己の力や才能を開花させるようなもので、弱者の「ルサンチマン(怨恨)」の対象になるからです。
「善」と「悪」の価値観の反転
キリスト教をはじめとした奴隷道徳は、貴族道徳のような価値観を否定し、「強いのが悪く、弱いのがよい」という価値観を人々に植え込みます。
元々は、貴族道徳のような自己肯定的な道徳は「よい」とされてきました。しかし、奴隷道徳の根底にあるルサンチマンは「よい」とされてきたものを「悪い」ものします。ここからわかるのは、自己肯定ではなく他者否定こそが、奴隷道徳の本質的な条件なのです。
いつの間にか奴隷道徳は価値基準を反転させれて、「強いのが悪く、弱いのがよい」という価値観が生み出されるのです。
ルサンチマンの人間が思い描くような〈敵〉を想像してみるがよい、—そこにこそは彼の行為があり、彼の創造がある。彼はまず〈悪い敵〉、つまり〈悪人〉を心に思い描く。しかもこれを基本概念となし、さてそこからしてさらにそれの模像かつ対照像として〈善人〉なるものを考えだす、—これこそが彼自身というわけだ!・・・
そもそもルサンチマン道徳の意味で〈悪い〉とされるのは一体誰であるか、ということが問われねばならない。これにたいし、いとも峻厳な答えをするなら、こうだ、—ほかならぬあの貴族道徳での〈よい者〉、つまり高貴な者・強力な者・支配者が、ルサンチマンの毒々しい眼差しによって変色され、意味を変えられ、逆な見方をされたにすぎないものこそが、まさにそれなのだ。
『道徳の系譜』
禁欲主義からニヒリズム(虚無主義)へ
キリスト教のような奴隷道徳は、禁欲主義的理想を人々に提示することで人生の苦悩に意味や目的を与えました。禁欲主義的理想の三大表現とは、清貧、恭謙、貞潔とニーチェはいいます。
これはキリスト教に限らず、哲学自体の成立条件が禁欲主義的なものから成立しているとします。哲学者にせよキリスト教にしても官能的なものを拒否し、禁欲主義的なものを正しいとします。
ただ。禁欲主義は確かに苦悩に意味や目的を与えることで人々に慰めを与えます。しかし、苦悩の根本原因を取り除くことはありません。
また、ニーチェは禁欲主義的理想を人々が欲するようになった理由として、「人間が本質的にいって生の意味を求める存在だから」と述べています。しかし、同時に禁欲主義を突き詰めると「ニヒリズム(虚無主義)に見舞われることになるのです。
神は死んだ
また、ニーチェが生きた時代はキリスト教の影響力が弱まり始めていた近代と言われる時代でした。宗教的なものより科学主義が台頭した時代です。
その中で、人々の心の支えとなるような思想が弱まることで、ニヒリズムに社会は陥っていルトニーチェは分析します。こうした時代背景を見て『ツァラトゥストラはこう語った』の中で「神は死んだ」という名言を残しました。
権力への意志と超人
権力への意志
ニーチェは、このニヒリズム(虚無主義)を乗り越えるために必要なこととして「権力への意志」という概念を提唱しています。この概念は1894年に出版された『権力への意志』や、それ以前の著作である『ツァラトゥストラはこう語った』や『人間的な、あまりにも人間的な』の中でも登場しました。
権力への意志とは、人間を動かす根源的な動機である、「生きている間に、できるかぎり最も良い所へ昇りつめよう」とする努力や野心のことを指します。ニーチェは、「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」のことと述べています。
また、ここで重要なのが権力への意志が決して人間の主体の中から生み出されるものに限ったものではないということです。これは自然現象を含めたあらゆる物事の中でせめぎ合っているものなのです。
真の世界は存在しない
また、ニーチェは唯一の真理や真の世界が存在しないと主張します。虫には虫の、魚には魚の都合の良い解釈があります。そして、それらの真理は、各生物や自然が個別にもつ権力への意志の分だけ存在するのです。
そのような意味で、世界は虚構であり唯一の真理が存在しないとニーチェは主張します。そして、その虚構を生み出すことがどの生物にとっても、生命を維持する目に必要な条件なのです。
超人思想とニヒリズム思想の克服
しかし、絶対的な真理がなく、どれも各個別の権力への意志が生み出したものに過ぎないことが分かった時、ニヒリズムに陥ってしまいます。この克服のためにむしろ、ニーチェはニヒリズムを徹底すべきであると主張します。
そして、ニヒリズムを全面にして受け入れながらも、権力への意志を以て新しい価値の基準を生み出すような人のことを超人と呼んだのです。ニーチェは超人に至るまでのプロセスを精神の三段階として論じています。
「精神が駱駝となり、駱駝から獅子となり、獅子から幼子になること」
ラクダは神からの「汝なすべし」を守り、重苦しいものを背負ったラクダが砂漠へいそぐように、私たちを精神の砂漠へと導く精神としています。
獅子の精神では、新しい価値を創造することはできません。「我欲す」を欲し、自分の意思を貫き通そうとしていきます。
最後に、獅子は幼子に変わります。幼子は、聖なる肯定をもった精神であり、新しい価値の創造を可能とします。そうして、自分の意志を意志することを可能にすると言います。
永劫回帰
ニーチェは、ニヒリズムを乗り越える対処法として永遠回帰という思想を提唱しています。「永遠回帰」は、世界には始まりも終わりもなく、ただグルグルと回り続けている過程であるとする世界観です。
「永遠回帰」は、キリスト教的な終末論的(世の中に終わりがあるという考えの)世界観に対する批判として考えだされたものです。キリスト教では、世界の終わりにイエス・キリストが再臨し、「最後の審判」で永遠の生を得るひとと、地獄に落とされるひとに分けられる。これが終末論的世界観です。
最後に、救いが差し伸べられる世界とは違い、永遠回帰では無限に繰り返されるだけです。そのでは苦悩も無限に繰り返されます。しかし、幸福もまた無限に繰り返されます。
この無限に繰り返されるという事を受け入れつつ、幸せを糧にして生を肯定して生きることが重要であるとニーチェは述べています。